大阪 鍵を開ける 歴史の謎の扉

大阪の陣

大阪の陣 歴史の謎の扉の鍵を開ける――慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が亡くなると、豊臣政権内部の対立が激化し、慶長5年9月15日には関ヶ原合戦が起こり、徳川家康率いる東軍と石田三成ら西軍が激突。この合戦に勝利した徳川家康は慶長8年2月12 日に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。けれども大阪城には秀吉の遺児豊臣秀頼が母淀殿とともに未だ健在で、徳川家を凌ぐ権威を保持したまま君臨していました。この豊臣家と徳川家という二大権力の最終決着戦となり、戦国時代最後の大合戦となったのが「大阪の陣」で、慶長19年10月~12月には「大阪冬の陣」、翌20年5月には「大阪夏の陣」が起こり、慶長20年5月7日に大阪城は落城し、翌8日に秀頼・淀殿が自害して豊臣家は滅亡しました。

プロローグ

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、同8年に征夷大将軍に任官して江戸幕府を開き、10年には秀忠へ将軍職を譲りました。一方、大阪城には豊臣秀吉の遺児秀頼が居り、諸大名とは別格の存在として確固たる地位を保っていました。徳川氏が将来にわたり天下を支配し続けるためには、どうしても豊臣氏の勢力を排除しておく必要があったのですが、そのきっかけとなったのが、京都にある方広寺の鐘銘事件でした。19年(1614)7月、徳川方は豊臣秀頼が再興した方広寺の鐘銘に、「国家安康」「君臣豊楽」とあるのは、家康の字を裂き、豊臣を君として楽しむものであるとして、豊臣方を問いただし、弁明の使者として大阪から片桐且元が、家康が居る駿府へ派遣されました。結局、且元は家康から許しを得ることができず、大阪へ戻ってから和議の条件を提案しました。その内容は、①秀頼が大阪城を出ること、②秀頼が江戸へ参勤すること、③淀殿が人質として江戸へ下ることです。豊臣方は、提案をした且元を裏切り者とみなし、身の危険を感じた且元は大阪城を退去します。そして、戦闘準備として、大阪城には大量の兵糧米が運び込まれ、多数の浪人も召し抱えられました。

大阪冬の陣と福井藩

慶長19年(1614)10月、家康は豊臣方の不穏な動きを受けて、諸大名に出陣を命じ、大阪冬の陣が始まりました。そして、11月半ばには20万を超える徳川方の軍勢が、10万5000の将兵が立て篭もる大阪城を包囲したのでした。12月4日、2代藩主松平忠直が率いる福井藩の軍勢は、加賀藩や彦根藩など、徳川方の将兵とともに、大阪城を南方から攻めました。しかし、城方の銃撃などにより多数の死傷者を出して退きました。因みに、福井藩の本隊は八丁目口付近の惣構を中心に攻めましたが、一部の兵は真田幸村(信繁)が造らせたとされる出丸、「真田丸」の攻略に向かったようです。大阪城が堅固であることを知った家康は、鉄砲・大砲による砲撃を行い、福井藩にも砲撃命令が下りました。連日の攻撃で、淀殿など城中の人々を動揺させた結果、同月21日には、城の堀を埋めることなどを条件に、徳川方と豊臣方の和議が成立しました。

大阪夏の陣と福井藩

和議の成立後、家康は秀頼に対して、籠城する浪人を召し放つか、大和郡山へ移るかを迫りました。豊臣方が容認できるはずもなく、再び戦さの道へと突き進んでいきます。本丸を除くほとんどの堀が埋め立てられたことで、大阪城は「裸城」同然の有様となり、幸村(信繁)など豊臣方の諸将は、城外での戦いを強いられることになりました。また、兵力も徳川方の約15万に対し豊臣方は約5万と、両陣営にはかなりの差があったようです。そのような中で夏の陣が勃発し、慶長20年(1615)5月6日・7日の両日、徳川方と豊臣方の間では、最後となる本格的な戦闘が繰り広げられました。特に6日の戦いでは福井藩の軍勢が、徳川方の兵に加勢をしなかったため、家康から昼寝をしていたのかと叱責され、翌日必死の覚悟で奮戦することになります。最終決戦となった5月7日、天王寺表にまで兵を進めた福井藩は真田隊などと激しく激突しました。人数に勝る越前の兵は真田隊を撃破、家臣西尾仁左衛門が勇将幸村を打ち取り、勢いに乗って大阪城一番乗りを果します。翌8日、秀頼は母淀殿とともに自害し、豊臣家は滅亡します。この戦いで多くの将兵・庶民が亡くなりましたが、ようやく戦国乱世も終わり、世の中は天下泰平の時代を迎えたのです。

大阪の陣に参陣した家臣と家

福井藩の藩祖結城秀康は、68万石の大大名に相応しく、多くの家臣を召し抱えましたが、その家臣たちが忠直の時代、大阪の陣で活躍することになります。戦国大名武田家の旧臣であった山縣家(笹治)家、秀康の結城城主時代からの家臣で、「結城四老」と称された多賀谷家と山川家の3家にもクローズアップしていきたいと思います。

大阪の陣の背景

徳川氏対豊臣氏という単純な二項対立的なものではなく、はるかに複雑な性格を帯びていたようです。徳川家康は将軍となり関東や東海をおさえましたが、西国にはほとんど進出できないでいました。また、豊臣秀頼は一大名に転落しておらず、多くの大名から公儀として認められていました。知っての通り、やがて、徳川氏と豊臣氏の二重公儀体制は破綻します。徳川氏は大阪の陣に勝利することで、唯一の公儀となるだけでなく、大阪を拠点とする「首都圏」の経済力を掌握し、西国へも進出する全国政権に転換していきます。

尼崎の役割りとは?

このように大阪の陣は、非常に大きな意義を持つ戦いと認識されることになりました。そうした大阪の陣で、大阪から至近の地にある尼崎はどのような役割を果たしたのでしょうか。曽根勇二氏は、伏見や大阪を拠点に形成された「首都圏」が、豊臣秀吉の死後も整備され続けた結果、尼崎や兵庫の地の重要性も増してきたとしています。そのため、徳川氏が尼崎や兵庫を拠点に、大阪を経済封鎖した点を評価する。尼崎が経済封鎖の拠点となったことは、既に『尼崎市史』第二巻で指摘されており、『市史』の先見性がうかがえます。ただ、『市史』第五巻に史料が掲載されなかったためか、尼崎の役割は、曽根氏を除くとほとんど注目されていません。そこで改めて史料を示すことで、その役割を再確認したいと思います。

尼崎城の池田政長と徳川氏

まず、大阪冬の陣へ向けて大阪冬の陣の段階で、尼崎城に在城していたのは、池田政長でした。『建部家系図』によると、政長の祖父高光が豊臣秀吉より尼崎周辺の三万石の代官を命じられ、父の光重も豊臣秀頼の近習を務めた後に代官の職を継いだといいます。高光は関ヶ原の戦い後に徳川氏に仕え、尼崎は徳川氏の直轄地となったとされますがそのような形跡はありません。徳川氏に服属する契機となったのは、関ヶ原の戦いではなく、むしろ慶長一五年(一六一〇)の政長による家督継承であったようです。

家督の交代を機に徳川氏に従属

この時、政長が八歳と幼少であったため、豊臣秀頼は建部氏の跡式を没収しようとしました。そこで政長は母が姫路城主池田輝政の養女であった所縁から、輝政の義父である徳川家康に取り成してもらい、無事家督を相続することができました。家康はこの時、池田輝政の家臣である池田重利(下間頼広)に政長の後見を命じています。こうした家督の交代を機に徳川氏に従属していく事例は、熊本城主加藤忠広や和歌山城主浅野長晟、金沢城主前田利常などがあります。

戦略的な囲い込みの結果

そして、『駿府記』慶長一九年五月二一日条には「池田□□越(重利)前守〈御礼輝(池田)政甥、摂州/尼崎代官〉云々」とあり、徳川氏と豊臣氏が手切れとなる方広寺の鐘銘事件が起こる三ヶ月前に、家康は後見の池田重利を尼崎代官としています。『下間(池田)家系図』によると、家康はこの時密かに名馬と衣服を与えたといいます。福田千鶴氏はこれを大阪の陣のために進めていた準備の一環として重要な意味を持つとし、池田利隆(輝政の長男)には建部氏と協力して、尼崎から兵庫にかけての一帯を押さえる役割が期待されていたと評価できます。『建部家系図』によると、大阪冬の陣に際して、秀頼は尼崎代官所の兵粮米を大阪城に運ぶように催促してきましたが、池田重利や建部一族の建部与十郎らは、政長が建部氏を相続できたのは徳川氏のおかげであるとして、これを拒否しています。

尼崎城の守備を優先し建部与十郎は許された

そして、一〇月一三日に大阪冬の陣が始まりました。『駿府記』慶長一九年一〇月一六日条によると、堺で豊臣方三百と徳川氏に味方した片桐且元の軍勢二百が衝突しました。堺奉行が片桐方に加勢しましたが、且元の家臣の多羅尾半左衛門と牧治右衛門が討死しました。この時、且元の軍勢は尼崎に逃れましたが、豊臣方の追撃を受け敗走しました。建部与十郎は後に且元を援けなかったことを家康より責められましたが、尼崎城の守備を優先したと弁明し許されています。ただ、『池田家履歴略記』によると、一〇月二一日には池田利隆の先鋒である湯浅右馬允・半三郎父子が尼崎で戦ったとしています。

大阪冬の陣は籠城戦だけではない

大阪冬の陣は、大阪城の籠城戦ばかりが注目されますが、堺や尼崎から始まっていたのです。『難波戦記』では、豊臣方の真田信繁や後藤又兵衛が宇治や瀬田に出撃する案を主張したとされますが、尼崎城が既に徳川方に確保されている以上、そうした出撃案は危険すぎ、やはり俗説の類に過ぎないと言えるでしょう。

家康がいかに尼崎を重視していたか

片桐且元は徳川家康の意を受けて、三ヶ国と小豆島に対して、塩・薪・魚類を残らず尼崎に集めるよう命じました。この三ヶ国とは且元が国奉行を務めた摂津・河内・和泉でしょうか。小豆島は分裂し、六人の大庄屋は豊臣方に味方し大阪城に詰め、十人は徳川方に味方し尼崎や堺に出仕しました。『市史』や曽根氏は、徳川方の十人の対応から家康が尼崎と堺に物資を輸送させるよう命じたとしますが、家康自身の命令はあくまで尼崎のみでありました。家康がいかに尼崎を重視していたかを知ることができるでしょう。

秀忠が大阪への米の輸送を禁止

大阪夏の陣へ向けて慶長二〇年(一六一五)三月上旬、京都所司代の板倉勝重によって、豊臣方が再軍備を進めているという情報が徳川家康に伝えられました。中でも兵粮は大阪商人によって兵庫に集められ、淀川河口の伝法へ運ばれていました。こうした動きに対応するため、徳川秀忠は大阪への米の輸送を禁止する処置をとります。

尼崎は京都や伏見に並ぶ経済的機能を果たす

秀忠の年寄衆は三月一四日に江戸城へ西日本の大名の留守居を集め、大阪の川止めを実施し兵粮攻めを行うため、大阪への米の輸送を禁止しました。そして、米を換金したければ、尼崎を経由して運んだ先の京都や伏見で行うよう指示しています。浅野氏はこの命令を受けて、さらに紀伊から大阪へ商売に出向くことも自主的に禁じる処置をとりました。すなわち、神崎川や淀川を介して首都京都の玄関口であった中世以来の尼崎の経済的地位は健在でありました。そこに豊臣氏が新たにつくった首都である伏見と大阪が加わりましたが、尼崎はこの三都の喉首にあたる要衝の地でした。四月に経済封鎖がさらに強化されました。秀忠の年寄衆である酒井忠世・土井利勝・安藤重信は佐賀城主鍋島勝茂に、米以外の物資も対象とし、大阪への輸送を禁じ、尼崎において換金するよう命じました。尼崎は大阪の陣という軍事的緊張状態の中で、京都や伏見に並ぶ経済的機能を果たすまでになっていたのです。

尼崎が徳川方勝利に貢献した

尼崎は大阪や京都、伏見へ物資を輸送する際、要衝の地でした。そのため、大阪の豊臣秀頼もその直轄化を目論みましたが、その拙速な方法は、逆に尼崎城主建部氏の徳川氏への従属をうながすことになってしまいました。家康は二女の嫁ぎ先である池田氏を用いて尼崎をおさえ、大阪を経済封鎖することで、大阪の陣を優位に進めることができました。そして、大阪の陣自体が、尼崎を京都や伏見のような米や諸品の換金の場として成長させ、経済的地位を高めました。大阪の陣後、建部氏は播磨の林田に移封され、徳川譜代の戸田氏うじかね鉄が尼崎に入ります。そうした前提は、尼崎が大阪の陣において、徳川方勝利のため経済的に大きな役割を果たしたことにあったのです。

豊臣方の武将

真田幸村 (1567~1615)
豊臣秀頼に招かれた勇将 越前勢と戦って戦死、家康本陣 へ突撃した話は有名。
真田大助 (1602?~1615)
幸村の嫡男 父幸村とともに奮戦、5月8日に秀頼 に従って自害した。
毛利勝永 (???~1615)
秀頼に招かれた勇将 天王寺口で徳川諸隊を撃破する などの勢いをみせた。
大野治長 (???~1615)
秀頼に仕えた武将 5月8日に秀頼に従い自害した。
大野治房 (???~1615)
秀頼に仕えた大野治長の弟 岡山口で徳川方諸隊と奮戦した。

徳川方の武将

徳川家康 (1542~1616)
江戸幕府初代将軍 大御所として天下の実権を握る。
徳川秀忠 (1579~1632)
江戸幕府2代将軍 家康の3男。
伊達政宗 (1567~1636)
仙台藩主(61.5万石) 長女五郎八姫は松平忠輝の室。
井伊直孝 (1590~1659)
彦根藩2代藩主(15万石) 徳川四天王の一人、井伊直政 の次男、赤備えで有名。
本多忠朝 (1582~1615)
上総国大多喜藩主(5万石) 徳川四天王の一人、本多忠勝 の次男、毛利隊と戦い戦死。
藤堂高虎 (1556~1630) 津藩主(22万石)
前日5月6日の八尾・若江の戦い で勝利した。
松平忠直 (1595~1650)
福井藩2代藩主(68万石) 家康の孫、真田隊と戦って破り、 大阪城一番乗りを果たす。
松平忠輝 (1592~1683)
高田藩主(45万石) 家康の6男。
前田利常 (1593~1658)
加賀藩3代藩主(119.2万石) 岡山口の先鋒を命じられた。
黒田長政 (1568~1623)
福岡藩主(50.2万石) 冬の陣では江戸に留め置かれた。
加藤嘉明 (1563~1631)
松山藩主(20万石) 冬の陣では江戸に留め置かれた。
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